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「火病」と「のぼせもん」
2016.12/31 (Sat)
「生き馬の目を抜く」というのは江戸の油断も隙も無いさまを形容する言葉だそうだけど、以前、どこかで、それは岡山のことを言うんだ、と読んだことがある。確かに、岡山って、何となくおっとりしているような雰囲気があるけど、どうも要領が良いというか、抜け目がないというか、それでいて何となく憎めない感じがある。(桜井日奈子の笑顔が脳裏にあるのか?)
どうも県民気質というのは、やはりあるとしか思えない。・・・しかし。
瀬戸内海に面する備前と山間の美作が同じ気質になるわけがない。
私の故郷の島根県は、出雲の国と石見(いわみ)の国、隠岐の国で成り立つ。
県民気質、という一つの気質でまとめるのは無理だが、「国」ならなるほどと頷けることが結構ある。
気候や地勢から住民の気性を、歴史から気質を調べてみる、というのは、戦後新しくつくられた「社会科」と違って、本当の意味での「社会」の勉強なのかもしれない。
これなら、現代社会を生き抜く手立てとしての「社会科」と違って、「日本という社会」の淵源から今に至る発展の形を学び、結果、社会をよりよくするための参加の在り方を考えるようになるかもしれない。
脱線した。
出雲も石見も、実は同じく歴史が古い。なのにその発展状況は、というと雲泥の差だ。
石見人は出雲人が嫌いだ。出雲人は自己主張をしないのに、気がついたら美味しいところはみんな出雲が持っていくからだ。
出雲人は石見人を嫌ってはいない。が、馬鹿にしている。本当にそうなのかどうかは知らん。ただ、そう見える。
何故だろうか。
石見人は自殺者が多い。すぐ、世の中に絶望する。すぐ頭に血が上る。その分、逆にこうと決めたら寝食を忘れて取り組む。
だから石見人は「のぼせもん(上せ者。お調子者)」と言われる。半島国に近いから火病の気があるのかもしれない。
こんな人間は出雲人の竹下総理みたいな「根回し」ができない。順を追って、でも、ちゃんと組み上げなければならないこと、なんてことはからっきし、だ。
それで、組織は作れない、当然人の上に立ってみんなを動かすリーダー、なんてのはとてもじゃないけど…ということになる。
だからアイディアは良くても思い通りにいかないとすぐ頭に血が上って「もういい!やめだ!」と怒ってしまい、「しょうがないな、それなら・・・」と出雲人が引き取り、完成させてしまう。
冷静になって、「しまった・・・」と大後悔する。けどもう遅い。
それで
「出雲人は石見人を嫌ってはいない。が、馬鹿にしている」
と思わざるを得なくなる、と。身から出た錆、だ。
でも、そういう人間も、実は必要なんだ、とこの頃思うようになった。
「手足になる人間」なんて言うと、何となく格下、蔑視みたいな感じになるけど「職人」とか「技術者」と見たらどうだろうか。
いくら素晴らしいことを考えても、その意を汲んで期待通り(時にはそれ以上)の結果を出すのは格下のできることか?
第一、考えた人が自分で全てができないからこそ、手足が要るのだから。仕事の質が違うのだ。
近所の国みたいに「思い通りにいかなくなったらわあわあ騒ぐばかり」、じゃしょうがないけど、そんな時だって「こうと決めたら(決まったら)寝食を忘れて取り組む」というのは、間違いなく社会の役に立つ面であって、そこは石見人の長所として、やはり日本人として育んできた結果なのじゃないか、と思う。
昨年末の日韓合意、今の合意破棄騒ぎ、を見ていると、まるで出雲人と石見人の戦いのようだ。
結果は勿論、出雲の百戦百勝。
ただ、石見は続くけど、韓国はどうなるんだろう。消滅するのか?
「こうと決めたら寝食を忘れて取り組む」気質はある筈だけど、あの国ではそういうの、蔑視されてるみたいだからなぁ。
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