繋ぎたる船に棹差す心地して
ホーム » 考え方 » Entry
書く意味がない
2016.08/10 (Wed)
さて、これまで、悩みに悩んで日記を書いてきたけれど、最近は「どんなふうに書くか」と悩む以前の問題で、ネタを見つけること自体ができない。ボケて来たからか?それは確かにあるけれど。世間一般の「話の種」は、その都度そこら中にある。しかしそういったタイムリーなことは、著名な人がさっさと書くわけだし、当然のことながら一般大衆の暇つぶしの夢想、書いて挙げたって下手の横好きにも至れない。
「2chなんか、便所の落書きだ」、なんてこと、以前は能く言われていたけど、時たま見ることのできるハッとするような寸言は、とてもじゃないけど便所の落書きなんてものじゃない。あれは一種の花の下(もと)連歌だ。
そんなのに比べたら、この日記なんかは「ゴミ記事」にも入れてもらえない代物だ。
以前はそんなこと(ゴミ以下ということ)に思いを巡らすことさえできず、知らない者の強みで好き勝手を書いてきた。
しかし、最近になって所属するSNSで書く意味を見失っているように感じ始めた。
いや、書く意味を見失ったのではない。「書く意味がない」と、今になってやっと実感し始めた、と言うべきか。
そこで書く意味がない、ということは、このFC2ブログに転載することもまた意味がないということになる。
・・・・というわけでこれを最後の日記にしようと思う。
・・・なんてことは言わない。
元々訪問者は0に等しいのだ。
大体、ブログを素人が書く意味、なんて元々ない。それに毎日数名しか訪問者のないもののブログが、「社会に何らかの影響が」、なんて考えられない。けど、それを敢えて書き続けてきた。それで6年半余りが過ぎた。
意味はない。しかし、実は「意味はある」。
「自分に」ではなく(つまり、独白、独り言ではなく)、「誰か」、「(それなりの)対象」を仮定して話すことで、焦点は明らかになり、話しぶりもそれなりに理詰めを意識する形になっていく。
この「それなりに理詰めにしようとする(考える)」ことで、自身の「考え方」が明らかになり、深まっていく。
実はこれこそが日記を書く意味だ。
訪問者はなくとも、話す相手を仮定することはできる。その相手に対して説明をしていく。(実際には仮定した相手は自分自身、なのだから)時には自問自答を繰り返すことだって起きる。これもまた意義がある。
「相手(実は自分自身)に対して真っ向から話し続けようとする」。
それは間違いなく自身を高める(深める)ことになる。
他者に話す、という体裁で自分に話し掛け続ける。そうすることが自分を高めることになる。
その際、通りすがりの人(ブログ訪問者)が、苦闘している姿を流し見て、なにか感じることがあったとしたら、それは想定外の出来事、望外の喜びなんだ、と思うべきだろう。
- 関連記事
-
- 初めての定石(たった8分、か?長い長い8分か?) (2016/08/13)
- 「眼高手低」 (2016/08/11)
- 書く意味がない (2016/08/10)
- 伊藤祐靖氏 (2016/07/30)
- 常識≒早合点? (2016/07/26)
スポンサーサイト
-
早速にありがとうございます。
あのSNSに書くことが目的だったんです。だから焦点はそこから動いていない。
逆に、ここを焦点として書いていたのなら、今のブログ名をつけるはずはなかったろうし、それこそブログなんて書く理由は端からない。
そんなだから、途中であちらを退会していたなら、こっちもとっくの昔に辞めてたでしょうね。
だからあちらをやめない限り、こちらをやめることはないんですが。
時事ネタ、って素材を生かす和食にすれば食べられるけど、大体が大慌てでフランス料理かなんかに仕立てようとして腹痛を起こしたりします。だからと言ってシナ料理にしようとするとどんな酷い調味料を使っているか分かったもんじゃない。
ところが本格的に和食にしようとすると下拵えや出汁つくりが大変なんですよね。
で、その苦労は三代かかって舌をつくった味の分かる客でないと全くわかってくれない。
外務省批判がすごいけれど、現政権の一部であって、大臣は留任、というのがどういうことか、何を意味するのか、あまり考えないんでしょうね。 - Comment by: 三っ太刀 | 2016- 08-10 |