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「歴史とは」(藤 直幹助教の羽仁五郎批判)
2016.03/06 (Sun)
~ただ、「歴史的考察」には結論を先に立てるな、と科学的姿勢を強調する割には「天皇制は意外に短く」、「暴虐の事例が数多」ある、「亡国の状態から独立を回復するに、天皇は不要」、と暗示する。見事にマルクス主義です。「経緯之学」としての「歴史」は全く、ない。氏は社会学者ではなく、歴史学者のはずですが・・・。
前回の日記ではこう書いて終わってしまっていましたが。
事実を「丹念に見詰め、解析する」ことの積み重ねで対象の構造を明らかにし、対象の本質に迫る、というのが科学的取り組みであるということで、歴史もそのように取り組んで然るべきものとすることに異論はありません。
しかし、この「解析する」時の姿勢、心持ちが実は一番大事なのに、これを無視し、当然「事実」の実行者の心持ちは一顧だにしないのが唯物論。「襤褸は着てても心の錦 どんな花よりきれいだぜ」、というやせ我慢や、高い矜持が、人を動かすのに大影響を与えるということを見詰める、という心持ちがなければならないでしょう。なぜなら「歴史」は人がつくるのですから。
羽仁五郎の説は「天皇制は短い」「天皇は人並み以下である」「だから、いらない」と書いてあるわけですから、「まず、破壊。新社会建設はそれから」という、実に単純な公式のままだということになりますか。
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前章の末尾に紹介しました毎日新聞の『天皇制の解明』シリーズのなかで、羽仁五郎氏の過激な天皇制批判にたいして、敢然と反撃を加えたのが、当時、京都帝国大学助教授であった藤 直幹氏(昭和二十三年大阪大学教授、同四十年八月没)でありました。
管見の及ぶところ、敗戦後のわが国体の危機に際会して、歴史学者の中で、国体護持の立場より、最初に堂々の論陣を張ったのは、まず藤氏ではなかったかと思います。
東大では、平泉澄教授が、終戦の日に責任を取って直ちに退職願いを提出し、まもなく帰郷されていましたものの、当時、まだ錚々たる歴史学者が残っていましたが、羽仁論文に一矢報いる者もなく、敗戦直後に卒業した私などは無念の思いにかられたものでした。
その意味で、この藤論文の果たした功績は、すこぶる大きいと申さねばなりません。
同氏は説く。
「歴史事象を現在との関係において考へるためには、ただ出来上つた諸事象を解明して現在の姿と比較するに止まらず、其等の生成し来れる過程を理解することが必要であることを註記して置く。之を天皇制について云ふと過去における皇統の尊厳性をたたへるに終止して国民として自己陶酔にふけることに止まらず、各時代の展開裡にあつてよく皇統を護持し、この制度を完成した国民の総意を深く顧みることであり、その事によつて現在における国体護持の問題に関して、我々の態度を決すべき一支柱を得るのである。」
さらに神代巻に関しても、次のように述べています。
「現代人の知性は神話を歴史と区別する。そして神話の意味を評価して斯かる神話を伝へた古代人の世界観のうちに皇統の尊厳性と永遠性をたたへる精神を認めやうとするのであり、更にこの情操が歴史の展開裡に、時代的色彩を帯びつつ国体護持の大義として顕現し来つたことに、神話と歴史とのつながりを思ふのである。」
このような立場から、氏は、羽仁論文の論点は(一)日本紀年の二千六百余年説への疑念、(二)皇統の連綿生に対する否認の二点にありとして、前者は現在の国史学界一般の常識であって異論はないが、羽仁氏のこの問題に対する「取り上げ方に関して疑念を挟ましむるものがある」とし、「少なくとも国体護持の礎である民草にとつて年代の相対的異動は本質的意味を有しないもの」と弁護します。
次に第二の皇室への非難でありますが、「(羽仁氏が)最も力をそそげる古代においていふとき、紀年に関して日本書紀等の記事の正確さを否定しつつ、御瑕瑾の資料としては疑ふことなく引用してゐる点に不審がある。」として、具体的に反論し、最後に、次のごとく結んでいます。
「これ以上、筆者は疑問を提示する余裕をもたない。歴史研究上の態度についての論議は一回で十分であり、若し聖徳と瑕瑾、忠と不忠の事例の列挙に関しては、多年に亘る歴史事象としてその数多く(その際、聖徳、忠勤の資料の遥かの多くあるは勿論である)応酬の煩にたへないであらう。要はそれ等の事例を処理する態度、換言すれば一般例と除外例とを識別して正しく処理する科学的精神の問題をまづ定めねばならない。羽仁氏がその論文の冒頭において特に記されたごとく批判討論された歴史事実に基づき結論を先に立てぬ歴史的考察の態度が堅持されねばならないのである。」
「筆者は歴史家として天皇制の将来に関し明るい期待をもつとともに、歴史人としてこの期待を実現せしめようとする決意を抱く。今や万民悉く心して実践し、『至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮』して大御心に副ひ奉るべき時である。」
きびしい占領下において、堂々とこれだけの正論を公表された藤助教授の識見と勇気に、私は深い感動を覚えたことを今に忘れません。
<祖国再建 上 第三章 津田史学「天皇論」の光と影 1、 「羽仁論文に対する藤 直幹助教授の正論」より>
註、 瑕瑾(かきん)→ 立派な宝玉にある僅かな傷
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治安維持法があり、特別高等警察(特高)があって社会主義運動家、無政府主義者等の反社会的活動を取り締まっていました。 それがなくなり、羽仁氏のような学者は、いきなり時の人、或る意味、ヒーローです。
逆に主流派であった人々は公職追放の憂き目にあう。
この時の気持ちはどうだったろうか、ということです。
特高に目をつけられていた人々は、今度はGHQが身の安全を保障してくれる(ように思って枕を高くして寝られる)。
対して、公職追放になるかもしれない人々は、「今度は自分が投獄されるかもしれない」と思う。
戦中、戦前は共産主義者が息を殺していたけれど、敗戦後は主流だった人々がそういう気持ちになる。
その中に在って皇統、国体の護持を主張する、ということは、学者生命は言うまでもなく、最悪の場合、生命そのものを懸けての発言であるということです。
そういうことに感動する、「人生、意気に感ず」。そういうことを学ぶ場が「歴史」なんじゃないでしょうか。
「社会で生きる手立てを学ぶ」とか「現社会を破壊するために現社会の仕組みを学ぶ」のではなくて。
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