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何を祈る (前)
2015.01/16 (Fri)
またまた随分前の日記です。書き掛けにして置いてました。一月三日が四十九日。
四日が五十日祭、ということで、私には今年は一月五日が新年、でしょうか。 そういうことにしました。特例です。
でも、天候がもう一つだったので、五日は家で閉門状態。
昨日六日になってやっと神札をいただこうと出掛けました。
例年の通り、石見国一宮の物部神社へ。
いつもの通り参拝をしたのですが、これまたいつもの通り、参拝の間、何もお願いができませんでした。
二拝二拍手で自らの穢れを祓った(つもりですけど)瞬間、一拝してしまうのです。
それで慌てていつもの通り、早口言葉みたいに「祓い給へ清め給へ、守り給へ幸合へ給へ」、と頭を下げたままでモゴモゴと口の中で呟く。
神宮の大麻と物部神社の神札。それに年末に届けていただいた靖國神社の御札を重ねて神棚に納めると、何となく一息ついた気分になりました。
ところで。
学生の頃から疑問に思っていたことがありました。神道に関する素朴な疑問です。
「四十年以上も前からなら、早く研究するとか、誰かに聞く、とか、しろよな」
なんて叱られそうですけど、いや、これは安易に聞かないで何年かかっても、実感する方がいいでしょう?
疑問ってのは以下のことです。
お参りする前に手水舎(てみずや、てみずしゃ)で手水を使う。
まず、右手に持った柄杓で左手に水を掛ける。それで左手に柄杓を持ち替え、今度は右手に水を掛ける。
左手に掛けることで左手が清浄になる。
その清浄になった左手で今度は右手に水を掛けると、身体の代表である「右手」が清浄になったということで、身体全体が「祓われた」ことになる。
だから今度は、清浄になっている左手に水を取り、口に含むことで体内の穢れを祓ったことになる。
当然「体内」というのは内臓云々ではなく、体内にある「心」のことでしょう。
これで分かる通り「祓(はらえ)」のために究極まで無駄な動作を削っているのが「手水の使い方」、です。だからこれは「象徴」的なものということになります。
そうやって、身も心も(或いは体内も体外も)、全ての穢れを祓ってしまう。
だから、間違っても手水を掬った柄杓を口に運び、飲んで、「あ~うまい!汗かいたあとだから沁みるなァ~」なんてことをやっちゃいけない。
とにかく「穢れ」を「祓」って参拝をするんだけれど、そこまで穢れを祓って、参拝する時には、いったい何が残ってるんでしょうか。
言うまでもないことですよね、残っているのは清浄な心と身体、ということになる。
では、その清浄な心と身体が参拝して何を祈るのか。
または何をお願いするのか。
・・・・・ということで、後半へ続く。
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