繋ぎたる船に棹差す心地して
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㊽「やせ我慢、もう、や~めた」
2018.07/02 (Mon)
今回は長いですよ。何しろ三回分を一まとめにして、ド~ンと。削りゃいいようなもんですが、ここは一つ、思ってることをグダグダとひたすら愚痴ることにしよう、と思いましてね。
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「日本という国は素晴らしい国だ」
「日本人はその素晴らしい国を支える奇蹟の民族だ」
「日本の文化は世界に冠たるものである」
「もう、とにかく、『日本文化』というより、『日本文明』を持った、『世界の指導者たるべき国』だ。決してアメリカのような腕力で世界の秩序を守ろうとするのではない、『徳を以て世界に範を示す国』なのだ」
・・・・・・なんてぇことを、ちょいとばかし遠慮がちに、でも至極真面目に、ここ四年余り、日記に書いて来た。
ああ・・・・・。
でも、もうやめることにします。もう「素晴らしい国だ」とか「世界に冠たる文化」だ、なんだって言わない。
いや、ウソを書いて来た、とか宗旨替えをした、とか、
「これから『朝鮮人になりたい』とか『シナ最高!』などと言うぞ!!」
・・・・と言っているのではない。
「日本がどうのこうの、ということは、や~めた」
と言うだけで、別にウソついていたわけでも、心変わりしたわけでもない。
いくら言っても、いくら「美しい国、素晴らしい国」と言っても、
「ああ、そんなもんかい」で誰も考えることをしなければ、言うだけ野暮なんじゃないかな、と思ったんです。
「今は危急の時だ。そんな能天気なこと言ってる場合か!」
ってね。
反対に端から「日本は素晴らしい」、だなんて思ってもいない人にいくら言ったって聞きゃしないでしょ?
松尾貴史をごらんよ。
安倍総理のマネして「ウチュクチイ国、うちゅくちい国」と散々に言ってた。
今の二次安倍政権になってからはあまり言わないのは、今言ったら顰蹙を買うばかりで、誰も笑ってくれないからだ。
いずれにしても「なるほどそうだ。日本は美しい国だ」と思ったら、決して口まねはしなかったろう。それくらい低劣な、悪口そのもののような口まねだった。
「思ってない奴はそんなもんだろう。でも『美しい国』と言われて気付く人もいる筈だ」
そう思ったからこそ、細々と日記を続けて来たけれど。
けど、気付いたからって
「何が、どう素晴らしいのか」
「私には何ができるか」
「私は、どう生きれば良いのか」
なんてことを、考えようともしないんじゃ、「うちゅくちい国」って恥ずかしげもなく繰り返す、低劣な物まねとどれほど違うだろうか。
「やせ我慢」ってのは「痩せ」の「我慢」だ、って以前、書きました。
その心は「痩せ」は「体力がない」。
「体力がない」者が我慢したって「大したことない」。
でも、大したことなくても、「我慢」してやってるうちに、体力はついてくる。
それに体力がないんだから、「我慢」(無理)したって、大事には至らない。
そうやって、段々に力がついてくる。
体力だって精神力だって同じことなんだから、やるしかないんだ、何度も何度も挫折しながら。
そんなつもりで、何回か書きました。「生兵法」だって同じで、初めはみんな生兵法なんだ、と。
要は生兵法と自覚して、こつこつ、やせ我慢すること。
「日本は素晴らしい」、なんて言うのはやめるけど、それはいくら言ったって聞いた方に聞く気がなかったり、聞き流してしまったり、そこから自分で一歩でも踏み出そうと思わないなら意味はないんじゃないか、ということだったんです。
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気付いたからって
「何が、どう素晴らしいのか」
「私には何ができるか」
「私は、どう生きれば良いのか」
なんてことを、考えようともしないんじゃ、「うちゅくちい国」って恥ずかしげもなく繰り返す、低劣な物まねとどれほど違うだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、またまた繰り返しなんですが。
(これからは「やせ我慢」じゃなくって、恥も外聞も、勿論、見栄も体裁も関係なく、やります)
「分かった」「覚醒した」「気付いた」って、それでOK、っていうペラペラの納得の中身に関して書いてみます。
しつこく、しつこく「日本は素晴らしい!」って言ってたらね、
「ああ、そんなもんかな」
、なんて気になるでしょう?
そりゃあ、中には
「ああ!うるさい。日本マンセーッ!って鬱陶しいやっちゃなぁ!」
なんて言う人もいるだろうけど、大概はあまり聞かなかった、公立学校ではまず習うことのなかった
「日本って本当は良い国なんだよ」
って話を優しく繰り返されると、日本人、根が素直だから
「そう言われればそうかもしれないよなぁ。」
となる場合が多い。
自己暗示かも知れませんよ?
「オレはできる。オレは選ばれた人間だ。オレの代わりはいないんだ!」
「日本、サイコー!」
そんな気になってくる。
繰り返し繰り返し言い聞かせていると、気持ちが揺れなくなる。それどころか確固としたものになってくる。
実体験がなくって、手触りなんかないもんだから、思い込みが徹すると良いことばかりになってくる。
だから念仏行者がいるんだし、同じく「良い言葉の繰り返し」、ということで「南無妙法蓮華経!」と声高に唱えること、十万遍、百万遍、なんてことしてると、精神が統一されて気持ちの中から雑念が無くなっていく。
でもね、「資本論」読まないで、一日中
「なぁ~むぅ~しぃ~ほんろぉ~ん~」
って繰り返してたらマルクス思想が分かるのか。
冗談じゃあないよ、そんなバカなことあるわけない。
それと同じでしょ?題目(題名。蓮華経という経品(きょうぼん))に、「お」をつけて「お題目を唱えなさい」、って。
「南無妙法蓮華経(私は素晴らしいお経の蓮華経と一体である)」と百万遍唱えたら、「蓮華経」の教えが分かるのか?
「南無阿弥陀仏」と唱えるのとは、全く質が違うのに???
これ、「創価学会の専売」、みたいに思っている人がいるけど、日蓮宗ですからね。創価学会は日蓮宗の中の、大石寺(たいせきじ)派の中の、「講」の一つなんだから。
言ってみれば在家の信者団体でしかない立場なんだけど、参加者が一時期は一千万人と言われるほどにもなり、本山なんか比べられないほどの財力を持ち、政党までつくって、新興宗教として国に申請、認可され、独自の活動を始めたもんだから、どっちが上だか何だか分からなくなってしまった。
で、本山の大石寺にああだこうだと口出しする。本山は本山で、献金は受け取りながら、
「たかが『講』の分際で!やかましいわい!」
、と湯気立てて怒る。
お互い、日蓮上人の
「日本の国を護る!」
という誓願はどうなっちゃったんでしょうね。
日蓮は自分の考える蓮華経の解釈を、国教として認めさせ、自身が国の精神的な柱になる、という彼なりの「やせ我慢」を貫いたんです。
けど大石寺も、創価学会もホントにまあ・・・・。
宗祖の心は、どこ行った。
あ、とんでもなく脱線した。
結局、こんなぺらっぺらの「納得した!」「分かった!」、のまま、って。
日本の将来について考えられるのか、です。
「南無阿弥陀仏」、は「阿弥陀仏」を心に置き、常に
「私は阿弥陀仏に抱かれている、阿弥陀仏と一つ(南無=帰命又は一体)なんだ」
と言い聞かせることで、心の平安を得ようとする。
対して
「素晴らしい蓮華経と一体です。私は蓮華経に抱かれている」
、ってのは、お経が私を抱くのか?
「そんなバカな!」、ですよね。そうじゃなくて
「蓮華経の教えに抱かれている」、ってことですよね。
「じゃあ、蓮華経を読んで、せめて一通り、理解だけでもしてるのか?」
、って話です。
お題目唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる。
でも、蓮華経の教えが分かるということじゃない。
「資本論」という題名を百万遍唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる(かもしれない)。
でも、マルクス思想が分かるわけじゃない。
「読書百遍、意、自ずから通ず」、なんてのは「読書」だからであって、「唱題目」では「意」は通じない。
心を強く持つための修練にはなっても、その物事を理解することに直接つながるわけではない。ただ、集中力つける(心を強く持つ)段階で、その気になれば他人の言うことを聞く力はつく。これが一番大事なことかもしれません。
「お題目」唱えるのと、「念仏」は些か違います。
「念仏」は、文字通り「念仏」。
とは言え、文字通りも、「仏号を唱えるだけ」「心に強く念ずる」「ひたすら呪文の如くに『なんまいだ~』と唱える」等、色々です。
共通するのは「仏の姿を描き易い」ということ。物事って、はっきりしてると取り組みやすいでしょう?
「南無妙法蓮華経」は難しいですよ、お経の本を心に描く、って難しいでしょう。だから、逆に「お題目」は、気合を込めて唱えるという手を使う。掛け声に近くなる。
昔は私の田舎でも、真冬の寒い時に「寒行」といって、団扇太鼓をドンツクドンドンと調子よく叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー」と強く唱えながら町を行進する一団がありました。地元の日蓮宗の信徒でした。水行も同じ調子でやってましたね。
「な~むあ~みだ~ぶ」と唱えながら延々と大数珠をみんなで繰るのとは、出来上がる意志の強さが違うでしょうね。
「お題目」を唱える。「念仏」を続ける。「真言」を唱えながら行動する。
みんな「修行」ではあるけれど、当然のこと、蓮華経や阿弥陀経や仏典に書かれていることを読まなければ、経典は理解できない。
それでも、そこでできた意志で、法話を聞き(=経典の講義を受ける)少しずつものが見え始める。
神社に参ったってそうですよ。パワースポット巡り、じゃなくって、何かを感じて、或いはその神社の由緒に感じるところがあってお参りしてみた。
その「心」を、神様が「見てござる」と、自身が思う。
「何事のおはしますかは知ら」ないけれど、何とも「忝(かたじけな)い」と感じて涙がこぼれた。何故なんだろう、一体、あの時、オレは何に感じて涙が出たのだろう、と折々に思い出してみる。で、古事記読んだり、祝詞を読んだりしてみる。そうすることで色々なことが見え始める。
そんな自身の心境を見詰めようともせず、ひたすら現世の御利益を、とオーバースローで賽銭投げて、参拝者の後頭部にぶつけてどうすんだ、と。
ところで。
私のように思いついたままを書き散らかして何もしないでいる者と、「行者」と言われるような人は全く違います。死ぬ気でやっておられますからね、そういう人は。
何が恐ろしいと言って、死ぬ気でやっているのに、側から見ると全く自然で、そんな気配を微塵も見せず当たり前のように色々なことに淡々と取り組んでおられることほど恐ろしいものはない。
「やせ我慢、やめた」。
日本の良さ、素晴らしさを何とか言葉に表したい、と。
そしてそれで一人でも多くの日本人に考え始めてほしい、というのが、私の「やせ我慢」でした、何とかして言葉で表そうというのが。
でも、やめた。言葉で表すなんて全く実力不足で、できない。
いや、仮にできたとしても聞く耳がなけりゃ伝わらない。
伝わったとしても、分かろうと努力しなけりゃ分からない。
少々努力したって、そう易々と分かることじゃない。
何しろ日本って、世界が驚くほどハイレベルなんだから。
いやいや、世界の驚くレベルをはるかに超えた(理解を超えた)ハイレベルなんだから。
「日本人への道」は長く険しい。
生まれてから60年が過ぎたけど、とてもじゃないけど、日本の素晴らしさを言葉では表せない。実力不足だ。まだ日は暮れてないけど道は遠い。
と言うわけで、「やせ我慢」は自分のためだけにすることにしました。
伝えよう、考えてもらおう、なんて、まだ自分が途半ば。
だからこれからは「気づいた!」「分かった!」と思ったことを、有頂天になって書き散らすことにします。
何?「それじゃこれまでと同じじゃないか」、って?
そんなことありませんよ~。
今まで以上に自分勝手ということで、バージョンアップを目指してます~~。
(おしまい)
2014年6月11日~14日の日記より
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