繋ぎたる船に棹差す心地して
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㊼「育つ」「教える」と「育てる」「教わる」
2018.07/01 (Sun)
これまでにも何度か書きましたが、私は60を過ぎたとはいえ、サンフランシスコ講和条約後の生まれ。ですから、戦争は知りませんし、当然、戦前の教育も知らない。
敗戦後の教育しか受けてないわけです。
だから、戦前の日本の教育、それによって形成された明治以降の日本人の精神、なんてことになるとそれはもう、本読んで勉強するしかない。
大体が日本に生まれ育ったからと言って、戦前の、世界が驚嘆したと言われるような日本人に自然になれるわけではない。
当たり前のことですよね、生まれた瞬間から、人の手を借りなければ生きていけないのが人間ですから。
親、親族のみならず、想像さえできないほどの多くの人間の影響(教育、と言ってもいいでしょう)あってこそ、生きていけるし、進歩できる。
ところがこの「大いなる教育の場」が、敗戦によって劇的な変化を、それもおそらくは不条理劇のような変化を強要された。
その結果が我々戦後生まれ、戦後育ちの日本人です。
それまでの価値観を否定され、禁止される。
神道指令により集落の「はかりごと(議事)の場」である神社での「寄り合い」が出来なくなり、家長制の廃止により核家族化が奨められ、資本家と労働者の「対立」関係が是とされ、学校では戦前の教育は否定される。
日本はダメな国だったから戦争に負けたんであって、正しい国に作り替えていくことこそが世界に貢献できる唯一の方法だと、社会あげて取り組み始めた。
「日本の復興」、ではない。「日本の再生」、でもない。
あったのは「新生日本」という絵でした。
けれど、これは過去を否定することです。全然別個の日本を新しく造ることです。
日本人はしかし「新生日本」を、「過去を否定することによってのみ成り立つ」、なんて思いもしなかった。思いもしなかったけれど現実は・・・・???
占領政策は「全ての面での過去との訣別」が根本理念です。
「二度と戦争をしない国(できない国)」をつくろう、ということになると、この全ての面において過去と分断する、一旦白紙に戻す、というのは有効です。
「復興」も「再生」もあってはならない。「新生」しかあり得ない。
「新生」。それは社会を作り替えることであり、国柄を作り替えることです。
昨日( 2014.6.4 )、産経の「正論」欄に帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助氏の文が載っていました。
社会というものの中で人間は生まれ、育てられ、生き、(社会を)維持、発展させるものだということを、私にもわかるくらい、簡潔、平易に説かれています。
部分転載をします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
某中学校の先生曰(いわ)く、務め始めて家庭訪問したら、見どころのある生徒の家には必ず祖父母がいて神棚と仏壇があつた、と。
(略)
子供は父母を見て育ちます。
父母は祖父母に仕へますから、子供は父母が敬ふ人がゐると知ります。
祖父母は神や仏を敬ふので、もつと偉い存在もあると承知します。
新婚夫婦は未熟で出産も育児も手探りでやるほかない。何事も初体験し惑ひ悩みます。
祖父母は家庭内の世間の目、家庭と社会を繋(つな)ぐ存在です。それがいないと我慢が抑制できない。他人に構はぬ“新人類”が勝手し放題の核家族から出現しました。
躾(しつけ)とは、子供が成長とともに身につける秩序感覚であり、他人との付き合ひ方の基本です。
子供の躾は若い父母には難しい。叱る一方なので躾が偏る上、父母は家庭では気楽に振る舞ひ、子供の手本になりにくい。
(略)
祖父母が孫を訓育感化すると、孫はまともな日本人に育ちます。
人生経験未熟な若い父母では、子供は日本人らしい発想法や行動様式が十分身につきません。
だから高度成長以来、日本人が育ちにくくなりました。
新婚家庭が祖父母を排除して生じた最大の障害は、若い世代の国語が幼稚化したことです。
(以下略)
「若者を未熟にした核家族の弊害」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140604/edc140604030800...
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「子を持って親となる」と言います。
これは「関係」の一つですが、人間の関係とは飽く迄も「彼我」の関係です。
だからともすれば対等のものになろうとします。
「姉妹のような母子」、がそれです。そこでは「育てる」という意識は希薄です。
「育てる」という意識が希薄なら、関係として「教わる」という意識も濃くなるはずがありません。
それでも、我が子というだけで愛情を注がれる子の方は、初めから親に全幅の信頼を置いている。親はその信頼の眼差しを感じ、親であることを自覚する。自覚した時、自身の親(子から見たら祖父母)に対する眼差しが変わる。
この眼差しで自身の立場を自覚すると同時に、自身が子供であった時の思いを思い返す。
社会はこれの繰り返しで成り立っています。
人は「育つ」ものであり、必要なことは「教える」ものです。自分が育つのであり、自分が他に教える。
けれど、放っておけば勝手に「育つ」のではないし、嫌がるのに「教える」ものでもない。社会でより良く生きていくために「育て」ようとし、全幅の信頼から「教わ」ろうとする。
同じ「社会への参加のため」なのに、愛情の多寡で「教える」が「育てる」になり、信頼の多寡で「育つ」が「教わる」になっていたのが戦前の日本だったのかもしれません。
話がどんどんずれそうなので、もう一度あの簡潔な説明を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《子供は父母を見て育ちます。
父母は祖父母に仕へますから、子供は父母が敬ふ人がゐると知ります。
祖父母は神や仏を敬ふので、もつと偉い存在もあると承知します。》
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これまでにも何度か書きましたが、私は60を過ぎたとはいえ、サンフランシスコ講和条約後の生まれ。
ですから、戦争は知りませんし、当然、戦前の教育も知らない。
敗戦後の教育しか受けてないわけです。
だから、戦前の日本の教育、それによって形成された明治以降の日本人の精神、なんてことになるとそれはもう、本読んで勉強するしかない。
大体が日本に生まれ育ったからと言って、戦前の、世界が驚嘆したと言われるような日本人に自然になれるわけではない。
当たり前のことですよね、生まれた瞬間から、人の手を借りなければ生きていけないのが人間ですから。
親、親族のみならず、想像さえできないほどの多くの人間の影響(教育、と言ってもいいでしょう)あってこそ、生きていけるし、進歩できる。
ところがこの「大いなる教育の場」が、敗戦によって劇的な変化を、それもおそらくは不条理劇のような変化を強要された。
その結果が我々戦後生まれ、戦後育ちの日本人です。
それまでの価値観を否定され、禁止される。
神道指令により集落の「はかりごと(議事)の場」である神社での「寄り合い」が出来なくなり、家長制の廃止により核家族化が奨められ、資本家と労働者の「対立」関係が是とされ、学校では戦前の教育は否定される。
日本はダメな国だったから戦争に負けたんであって、正しい国に作り替えていくことこそが世界に貢献できる唯一の方法だと、社会あげて取り組み始めた。
「日本の復興」、ではない。「日本の再生」、でもない。
あったのは「新生日本」という絵でした。
けれど、これは過去を否定することです。全然別個の日本を新しく造ることです。
日本人はしかし「新生日本」を、「過去を否定することによってのみ成り立つ」、なんて思いもしなかった。思いもしなかったけれど現実は・・・・???
占領政策は「全ての面での過去との訣別」が根本理念です。
「二度と戦争をしない国(できない国)」をつくろう、ということになると、この全ての面において過去と分断する、一旦白紙に戻す、というのは有効です。
「復興」も「再生」もあってはならない。「新生」しかあり得ない。
「新生」。それは社会を作り替えることであり、国柄を作り替えることです。
昨日( 2014.6.4 )、産経の「正論」欄に帝塚山大学名誉教授・伊原吉之助氏の文が載っていました。
社会というものの中で人間は生まれ、育てられ、生き、(社会を)維持、発展させるものだということを、私にもわかるくらい、簡潔、平易に説かれています。
部分転載をします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
某中学校の先生曰(いわ)く、務め始めて家庭訪問したら、見どころのある生徒の家には必ず祖父母がいて神棚と仏壇があつた、と。
(略)
子供は父母を見て育ちます。
父母は祖父母に仕へますから、子供は父母が敬ふ人がゐると知ります。
祖父母は神や仏を敬ふので、もつと偉い存在もあると承知します。
新婚夫婦は未熟で出産も育児も手探りでやるほかない。何事も初体験し惑ひ悩みます。
祖父母は家庭内の世間の目、家庭と社会を繋(つな)ぐ存在です。それがいないと我慢が抑制できない。他人に構はぬ“新人類”が勝手し放題の核家族から出現しました。
躾(しつけ)とは、子供が成長とともに身につける秩序感覚であり、他人との付き合ひ方の基本です。
子供の躾は若い父母には難しい。叱る一方なので躾が偏る上、父母は家庭では気楽に振る舞ひ、子供の手本になりにくい。
(略)
祖父母が孫を訓育感化すると、孫はまともな日本人に育ちます。
人生経験未熟な若い父母では、子供は日本人らしい発想法や行動様式が十分身につきません。
だから高度成長以来、日本人が育ちにくくなりました。
新婚家庭が祖父母を排除して生じた最大の障害は、若い世代の国語が幼稚化したことです。
(以下略)
「若者を未熟にした核家族の弊害」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140604/edc140604030800...
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「子を持って親となる」と言います。
これは「関係」の一つですが、人間の関係とは飽く迄も「彼我」の関係です。
だからともすれば対等のものになろうとします。
「姉妹のような母子」、がそれです。そこでは「育てる」という意識は希薄です。
「育てる」という意識が希薄なら、関係として「教わる」という意識も濃くなるはずがありません。
それでも、我が子というだけで愛情を注がれる子の方は、初めから親に全幅の信頼を置いている。親はその信頼の眼差しを感じ、親であることを自覚する。自覚した時、自身の親(子から見たら祖父母)に対する眼差しが変わる。
この眼差しで自身の立場を自覚すると同時に、自身が子供であった時の思いを思い返す。
社会はこれの繰り返しで成り立っています。
人は「育つ」ものであり、必要なことは「教える」ものです。自分が育つのであり、自分が他に教える。
けれど、放っておけば勝手に「育つ」のではないし、嫌がるのに「教える」ものでもない。社会でより良く生きていくために「育て」ようとし、全幅の信頼から「教わ」ろうとする。
同じ「社会への参加のため」なのに、愛情の多寡で「教える」が「育てる」になり、信頼の多寡で「育つ」が「教わる」になっていたのが戦前の日本だったのかもしれません。
話がどんどんずれそうなので、もう一度あの簡潔な説明を。
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《子供は父母を見て育ちます。
父母は祖父母に仕へますから、子供は父母が敬ふ人がゐると知ります。
祖父母は神や仏を敬ふので、もつと偉い存在もあると承知します。》
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2014年6月5日の日記より
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