繋ぎたる船に棹差す心地して
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⑯上下でもなく、敵対でもなく
2018.05/31 (Thu)
何でしょうかね。一年間で、一通り書いてしまったようで。けど、何一つまともに書けてないことも痛感していて。「自画自讃」と笑われるのを覚悟の上の鉄面皮で言いますが、それなりに進歩した、ということなんでしょう、こんな感じを味わうのは。
評価する自分と、その自分に監視されつつ、四苦八苦して作文を書いてる自分が居るわけです。
で、評価する自分は、当然、作文なんかしない。作文をするのは、怠けないように監視され、四苦八苦している自分、と立場は決まっている。
その評価する自分が言うんです。
「痛感するようになっただけマシじゃないか」、と。
或る時、尊敬する遥か年長の音楽家から、問題を出されたことがあります。
「作曲家が、自分の作った曲を指揮するのと、指揮者が指揮するのと、どっちが良い演奏、できると思う?」
「その作曲家は、棒が振れるんですか?」
「指揮者と同じくらい、とまではいかんけど『一応、普通に振れる』としたら。」
「・・・・う~ん。だったら、自分の曲なわけですから、よく知っている筈だし・・・。作曲家の棒の方が、良い演奏になるんじゃないでしょうか」
「じゃ、小説家と評論家だったら、小説家の方が上、というわけか?」
「・・・そうなりますね。確かに評論家には小説が書けないけど、小説家が評論書くこと、あるし。」
こう答えた私の頭には、大学生の時に「現代評論の名作」、として習った川端康成の「末期の眼」が浮かんでいました。
「時代が望む理想の姿というものを、現実は追いかけ、その理想を実現する。映画や舞台で、時代を席巻する名優は、不思議なほど、名家、或いはその没落した家系の者が多く、それは長い華麗な歴史の終わる、最後の光芒のようである。私のような一人の人間も、同じくその終わりの時には、最後の輝きを放つように、遠くまで見通せるのだろうか。死に際して、その眼を開くことができるのだろうか」
今になって思うと、これは評論というより、随筆のような気もするのですが、時代、人の世、を見詰めるという観点の明確さから言えば、紛れもなく評論です。
文芸を評論するのではなく、社会の在りようを評論している。
勿論、我が尊敬する音楽家は、そういう意味で言ったのではない。純粋に、文芸の評論、といった意味で、です。だから私の答えは、少なからず的を外している。
「小説家は、自分の書いている文章や話を客観視できないだろう?本人なんだから」
「それはそうですね」
「だったら、自分がどういうつもりで、この文章を書いたのか、こんな話にしたのか、主観的にしか捉えられないわけだ」
「はい」
「ということは、第三者、客観視できる者は小説家よりも作品を的確につかめることになる」
勿論、その小説家並みの見識と把握力があってのことですが、確かにその通り。反論できません。
そうなると「作曲家と指揮者の棒は?」ですね。
作曲家も小説家と同じく、頭に浮かんだイメージを曲にしていく。
なぜ、そこでそのフレーズになるのか、その和音にしたのか、一般的に自然なコード進行なら、そうはならないものを、あえてそのコードにしたのはなぜか、等について、作曲家に答えを迫ることはありません。また、答えられなくても問題にはならない。
たった一言、「そうしたかったから、そうしたんだ」
中には「音楽の神様の啓示があったのだ」なんていうのがいるかも。
作曲家の提示した作品の解釈。それは演奏家、そして彼らをまとめる指揮者の仕事です。そうして、指揮者が曲を現実のものとする。
指揮者は作曲家以上に曲を理解し、評論家は小説家以上に小説を理解する。
そうやって解釈されたものを提示された作曲家、小説家は、それによって自身の思いを明らかにされ、何かに気付き、それはまた、新たな作品を作り出すことになっていく。
上も下もない。どっちも必要でしょう?それが若い頃(三十前)の私には分からなかった。
指揮者あってこそ、作曲家は更に良い曲がつくれるし、作曲家あってこそ、指揮者の技量が上がる。
同じく、評論家あってこそ、小説家は更に良い小説がつくれるし、小説家あってこそ、評論家の技量も上がる。
これまた、「対立物の相互浸透」の一例です。
では、この「対立物」を、「政治家と国民」としたら?
政治家は、勿論、作曲家であり、小説家の立場、ですよ?
ならば、国民は指揮者であり、評論家である、ということになる。
両者は対立物として、必然的に相互浸透していく。
どちらか一方が、一方を叩くとブーメランとなって・・・・・・。
2011年1月22日の日記より
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「黒白をつける」「善悪の判断」「立場をわきまえる」「先輩風を吹かす」
これらは「位置関係」を示す表現で、こういう風に言うことで考え方がはっきりします。
「立場」とか「先輩風」だって、「何だエラそうに」と思った瞬間に、反発や憎しみに捕われます。
しかし逆に「目標達成のために組織力を」と理性で以て捉え、「立場」「先輩風(実力は変わらずとも責任感を持つ)」の有用性を理解しようと努めたらどうなるでしょうか。
ここ(社会という場)には、憎しみは基本的にはない筈です。憎しみ(感情)で立ち位置が動くと、約束事をはじめとする社会生活が成り立たない。家庭、チーム、趣味のサークル、学校、会社、地域社会、そして国家、世界。
「ムービングゴールポスト」、困りますよね。あれなんかは感情に社会が振り回される典型でしょう。あれでは社会の進展・発展は全く望めない。
相手を否定することに専念するあまりに、本来の切り拓くべき未来のことをすっかり忘れてしまう。「恨みは千年たっても消えない」というやつです。未来永劫消えない恨み。全く誰も救われることのない、まさに無間(むげん)「地獄」が永久に続く。
何ともやるせないのは、恨まれ続ける方ではなく、恨み続ける方が地獄に居続けることになる、ということなんんですが。
作曲家と指揮者、小説家と評論家、これらも憎しみを絡めてはなりません。絡めたら作品が無茶苦茶になります。作曲家の精魂込めた楽曲を、憎しみを以て良い演奏をすることなんかできないし、小説の論評の根底に憎しみがある、なんて・・・・ねぇ?
憎しみがあったら敵対してしまって、先の展開のしようがないでしょう。
「対立」=「敵対」?そうじゃない。相互に浸透してこそ意味がある。
「上下」=「支配者と被支配者」?そうじゃない。組織立てているからこそ、団結力が生れる。
なら、「国民と政治家(政権)」だって。
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