繋ぎたる船に棹差す心地して
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戦争と絵画⑥松本竣介の眼に見えていたもの
2012.11/11 (Sun)
絵描きが自分の捉えた美、とか真実を描き留めようとするのは、当然のことであって、その一所懸命が人々、国民を動かす。藤田のようなやり方も、松本のようなやり方も、一所懸命であることに変わりはない。間違ってなど、いない。それぞれが信ずるところを懸命に行っているに過ぎない。
世間の眼や、軍部の眼を気にして息をひそめているのとは訳が違う。
勿論二人とも、体制に阿っているわけでもない。
松本は同じ風景を何度も何度も描いている。そしてその風景は現実の風景とは似ても似つかぬものになり続け、現実には存在しない不思議な空間を展開していく。
それは松本の眼が歪んでいくのではなく、音のない(というか、おそらくは耳鳴りだけの)静寂の中で、松本の脳裡に次第に鮮明になっていく理想の景色なのだろう。
「こうだったら良いなあ」と言うような空想の景色ではなく、思いつきの景色でもない。
見詰めていくうちに景色の中にあらわれた(見えてきた)確かなものだけを描き留めたのが、松本の絵のようだ。
そこには労働運動とか社会主義革命などの証しは欠片もない。
あるのは静寂に支配された完全な世界だけだ。
何でそんなことが言い切れるのか。
これは実に簡単なことで、松本は兄や妻を通して「生長の家」の教えを身近に感じ続けていたからだ。
大本教から飛び出す形で始まった生長の家は、大本教と違って皇室を基とする国家観を以て世界を見る。
あるがままの世界に不平不満で立ち向かう、という社会主義思想、革命思想の反対側の生き方、感謝の念で向かうことを提唱する。
「今のままではいけない。今を打破しなければならない」という革命思想の対極である「感謝の念」は、「今」の中にある不都合を「見詰める」ことによって解消していく。
昔、武芸者は修業の中に、又、仕合の前に「無言の行」というものを行ったそうだ。
喋ると気が散る。気が散る、というのは集中できないということだから、喋らない。それでもつい喋ってしまうし、周囲の人がふと話し掛けるのに応じてしまったりする。それを常に意識して絶対に口を開かぬようにする。
それが「無言の行」、ということになる。
結果、「喋らぬように」と自らに「言い聞かせ続ける」ことで、集中力は異常なくらいに高まるという。
坐禅は普通、線香が一本燃え尽きるまでするものなんだそうだが、徹底して意識を集中させて、逆に何も考えない状態を作り出すのだという。
その際、参禅者の耳には線香の燃える音があたかも雷鳴の轟くように聞こえるということだ。無言の行も同じような体験をするらしい。
松本は耳が聞こえない。すると、聞こえない耳で、聞こうと神経を研ぎ澄ませることになる。
勿論だからと言って聞こえるわけではない。ただ、聴覚から得る情報はなくとも、その聞こえない耳で聞こうとする姿勢(集中力)は、視覚・嗅覚・触覚・味覚から、聴覚の不足を補って余りある情報を得ようとさせる。
「この線は要らない」
「この建物は描かずとも良い」
「この道はもう少し曲げて描いてやろう」
等々の、景色を支配し、差配するような気持からの、言ってみれば「不要なものは描かない」というような、傲慢な思いからではなく「描けなくなる」のだ。
藤田と同じく、松本もまた「あるべき日本人の姿」を見事にあらわして生きたのだと思う。
だから、彼らを評価できるのは彼ら以上に懸命に生きた人だけ、のような気がする。
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戦争と絵画⑤松本竣介は反戦画家か
2012.11/10 (Sat)

巡回展のポスターにもなっている「立てる像」の構図は、作業服だかつなぎだか分からないのを着た青年が、軽く足を開いて立ち、両拳を握り、遠くを見つめているものだ。自画像だという。
その様子はいかにも労働者風で、その視線の先には紅い旗が翻っているような雰囲気もある。
「革命を目指してるんだ!」
と言われれば
「そう言われれば、そう・・・・かな?」
と思う。
でも、何だか釈然としない。
確かに意志は感じる。立ち姿といい、拳を握っている様といい、明らかにこれを描きたかったんだろうな、という「何か」は感じる。
でも、これを「革命」とか「労働運動」とか言われると、何だか違うな、と思う。
そんなのじゃない。この絵は意志は感じるけれど、何となく茫洋としているのだ。
「革命」だとか「労働者よ、団結せよ!」とかの絵は、実に分かりやすい。
宣伝のためなんだから、茫洋としている筈がない。
もう、それしかない、といった感じの大きな紅旗が背景に翻り、「まなじりを決した・・・」、では些か怖いからか、大方は笑顔で
「革命成就の暁には理想の社会が開ける」
、みたいな言葉が大書された壁新聞でも貼ってあるのかな?と思わせるような視線の絵、ばかり。
実際、文化大革命の頃のシナ共産党の宣伝映画なんか、NHKでよく流れていた。
どうやったらあんな顔になるんだろうと思うくらいの、満面に笑みを浮かべた数十人の隊列が、紅旗を先頭に五列縦隊くらいの隊列で歌を歌いながら行進している。
もう実に楽しそうで、「一体何があるんだ?」と思ったら、その隊列、畑を耕しに行くんだ、と。
「んなわけ、ねーだろ!?」
と、こっちが突っ込み入れたのを、見透かしたかのように
「みんなで力を合わせて国のために尽くせるのですから、こんなうれしいことはありません!」
とリーダーらしい女の子が満面の笑みのまま、はきはきと答える。
金太郎飴のごとく、どこで撮っても同じ笑顔に同じ行進。
そりゃそうだろう。どこでやっても「革命遂行のため」という目的は同じで、共産党は一つなのだから、やり方も一つしかない。
目的がはっきりしていて手段は一つ。だから、奥行きは、ない。
楽しみは一つ。幸せは一つ。共産主義による社会革命が完遂されればみんな幸福になれる。貧しくたっていいじゃないか。お洒落なんかしなくたっていいじゃないか。みんな貧しくて、でも、希望に燃えて未来を切り拓くんだ!
だから、みんな人民服だ。毛沢東主席だって人民服だ!
・・・・・。それからしばらく経って、毛沢東をはじめとする共産党幹部の着ている人民服は同じ人民服ではあっても、高級な絹織物であることが知られるようになり、木綿の服しか知らない人民の中に疑心が生まれてくるのだが・・・。
今、共産党の幹部で、日常に木綿の、は言うまでもなく、人民服を着ている者は一人もいない。国内の式典の時だけ別誂えの高級な人民服を着ている。既に人民服は儀礼服になっている。
いや、松本竣介の絵は時機を考えれば、シナ共産党ではなくソ連のそれだろう、と言われるかもしれない。北半球の広範囲を占めるシベリアの大地と、重苦しい空と、抑圧された労働者の苦悩。それに共鳴したのだ、と。
そう言われてみればここに掲げた「Y市の橋」にせよ、挙げてはいないけど「国会議事堂」にせよ、「ニコライ大聖堂」にせよ、一見、実に重苦しい絵に見える。
しかし、重苦しく見えるけれど、これ、「労働者の気持ちを描いた」と言われれば、「?」と思う。
どの絵にも重苦しさはあるけれど、憤懣、憤り、怒りなどを感じるかと言えばそうではない。絶望、とも性質が違う。
藤田嗣治は戦争画という種類の絵に大きな可能性を見出し、命懸けで絵を描いた。人々が感動するところを見ることで、自らを励まし、更に双方を奮い立たせるために、軍服まで着て、絵の横に立った。
松本は違う。
中学生の頃から難聴になり、召集されることはなかった。
だから、自分は一心に絵を描くことを仕事とし、一国民として生きる。
それが一番立派な生き方であり、国に報いることである、と思った。
そこに戦争画を描くようにという要請が軍部からあり、戦争画を描く者には優先的に画材を配給する、との説明があった。
松本はそれに対して抗議の手紙を書く。
「戦争画を描くことだけが報国の志の表現手段ではない。それぞれがそれぞれの仕事を精一杯に果たすことで国民が頑張っているように、私は私の信ずるところを行うことで国に報いる、そのつもりで絵を描いている。だから、同じように画材の配給が為されることを願う。」
(ええ~っ?そんなことホントに言ったのか? 勿論そんなこと書いてないでしょうけどね。ただ、これが真意でしょう。謎解きは次回に。)

(続く)
戦争と絵画④藤田嗣治(日本に捨てられた・・・。)
2012.11/09 (Fri)
後に藤田は、自分の絵を見て涙を流し、拝んでいる人々を見て、自身がこれだけ人を感動させる絵を描けるということに非常な喜びを感じた、と言っている。併せて、「戦争画」というものが、人々に与える感動の大きさにははかり知れないものがある、これからももっと描いていきたい、といったようなことも話している。
優れた舞台を見て観客が感動し、涙を流す。
それを見て、演じた人々も感激して涙を流し、もっと頑張ろうと思う。
そして演技のためなら髪だって剃り落そう、健康な歯を抜いて老人の役作りだってしよう、とまでするようになる。観客の感動により、自身も感激した体験がそうさせる。
藤田は自分の戦争画で、それを実感した。
自分が一所懸命に絵を描く。それを見た人が感嘆する。
自分が一所懸命に絵を描く。それを見た人が次に具体的な何らかの行動を起こす。
それを見て藤田も感激に打ち震える。
「自分は日本国民として絵を描くことで国に報いるのだ。」
「絵を描くことで人々の気持ちを掻き立てるのだ。」
「古人は歌を詠むことで自然の力までも動かした。私は絵でもそれができるだろうことを信じる。」
ところが、敗戦により、これまで表立っては行動を起こさなかった社会主義思想の持ち主が、美術界でもGHQの後ろ盾により抬頭し、我が物顔で力を振るうようになる。
そんな中の一人によって藤田は戦争協力者の烙印を押される。
言ってみれば戦犯視され、公職追放と同じような扱いを受けるようになる。
黙って、己の意に反して戦争画を描いていた芸術家連中は、敗戦により「これで好きなように絵が描ける」と喜ぶ。そして新しく我が物顔で力を振るう連中と共に言う。
「募金箱を置き、軍服を着て、絵の横に立った藤田だけが悪いのだ」、と。
あれだけ国のために、と思い、命懸けで絵を描いたのに、また、その絵に感動する人々を数多見て来たのに、戦争に負けた途端に、世間は一気によそよそしくなった。
美術界は言うまでもなく、一般の、藤田の絵に涙した人々もこの地上から消滅したかのようになった。
「(私が)日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」
戦争画を見て、涙を流していた、拝んでいた、人々が間違っていたのか。
それとも一所懸命に戦争画を描き、軍服を着て絵の横に立ち、挙手の礼までしていた藤田が浅慮だったのか。
藤田は国策に振り回された阿呆なのか。
面従腹背の心を隠し通してきた芸術家連中が正しかったのか。
今、キリスト教徒である藤田の戦争画には、「宗教画の崇高さがある」と言われている。
けれど、それこそ皮相的な物の見方であって、それでは藤田の軍服姿はただのコスプレである、と貶しているだけにはならないか。
好奇心と探究心を呆れるほどの工夫で具現化してきた藤田。
日本人として、国のためにできることを命懸けで貫こうとしてきた藤田。
藤田が、ただひたすらに、一途に生きてきた、立派な先人の一人であることは間違いない。
だから、彼の絵を通しても、戦後体制というものを客観視できるのではないか、と思う。
戦争と絵画③藤田嗣治(芸術至上主義)
2012.11/09 (Fri)
芸術至上主義といえば、芥川龍之介の「地獄変」。 名人と謳われた画工が自身の思い(完璧であること)を徹底させるために、周囲に対して人を人とも思わぬような無茶な要求をする。
そこには身分の上下とか同輩への思い遣りなどというものは欠片もない、一匹の鬼がいるようだった。
しかし、誰一人として、その彼の画業の素晴らしさを認めぬ者はいない。
その才を、彼の傍若無人な言動の故に世に埋もれさせてしまうことを惜しんだ或る貴人が、彼に絵を描くよう依頼する。
そして
「地獄の絵を描いてくれ、それを衆人に見せて、人々に仏恩を知らしめたい」
、と言う。
画工は
「牛車を真ん中に据え、若い女人を坐らせ、それに火をかけて燃え上がる様を描きたい。ついては若い女人を牛車と共に火にかけて欲しい」
と貴人に頼む。
あまりに惨い要求に貴人は顔を曇らせたが、画工の娘を牛車に乗せ、火をかける、という妙案を思いつき、画工の要求を受け入れる。
酷い要求に応えた貴人のやり方も、また、鬼か悪魔の所業と言えるかもしれない。
用意ができた、との知らせを受けて、画工が牛車の前に来ると、火をかけられ忽ちに燃え上がる牛車の簾のうちに、鎖でつながれ、炎に焼かれているのは、己が娘だった。
画工は狼狽し、怒り、けれどすぐさま筆を執り、牛車が焼け、己が娘の死にゆく様を克明に写し取っていった。
絵が出来上がった後、画工は称賛の声を浴びる前に自害して果てていた。
貴人は、二人の死で、己の心の浅ましさを知り、逆に親子のその心の深さに打ちのめされたように感じる。
これ、芸術至上主義の話だ、とあったように思うのだけれど、どうもそうではないようだ。
一途に生きる、その一所懸命さというものの前では、ただ習っただけの「道理」とか「常識」というものは、それがどんなに立派な人の教えであっても、いやそうであればあるほど、役にたてられない(役に立たない)という、それだけのものだったんじゃないかな、と今、思う。
角度を変えれば、「火事場の馬鹿力」とか、同じく火事の時に大慌てで「一番大事なもの!」と無我夢中で飛び出したら、枕一つ抱えていただけだった、とか。
「芸術の前では、世間のいかなる力も無力だ」
ではなくて、
「一途に、一所懸命にやってきて得た力というものは、実に確固としたもので、それの前では、周りの全ての物事は色褪せてしまう」
ということなんだろう。
藤田の描いた戦争画は100号、200号という大きなものだったそうだ。その絵は本当に言葉通りの力作ばかりだった。
だからその絵を見に来た人々は感激して、泣き出したり、合掌して拝んだりしていたという。
肝腎なことはここからだ。
藤田はその絵の前に募金箱を置く。勿論それは藤田の収入に、ということではない。国の戦争遂行のための募金となる。他の絵ではそんなことはしていない。
置かれた募金箱には多額のお金が投げ込まれた。
これだけでも異常なことだが、藤田はその絵の横に軍服を着て立ち、募金に応ずる人々に挙手の礼を返していた。
「一兵卒として、自分も戦っているつもりで絵を描いている」
そう語っている。
「銃剣を絵筆に持ち替えて」というのなら分からぬでもない。でも、何故、それに募金箱、そして軍服で横に立ち、挙手の礼まですることがあるのだろうか。
「一兵卒として~」なら、絵を描き終えた時点で次の絵に掛かるのが当然の在り方ではないか。
それを藤田は募金箱を置き、軍服を着て絵の横に立ち・・・・。
(続く)
戦争と絵画②藤田嗣治(おかっぱ頭とドールハウス)
2012.11/08 (Thu)
藤田嗣治という人はwikiで見ると、学者や役人を多数輩出している、かなり裕福な家の育ちだったようだ。そんな中だからか、子供のころから絵が好きだった藤田を、やはり本人のためにということで、家人は彼を東京美術学校(現東京芸大)へ進学させている。
ところが当時の芸大の傾向は黒田清輝のような絵が主流で、藤田の肌に合わず、芸大のみならず、卒業してからの斯界も同様のことだった。
結局、藤田はフランスでの生活を決断し、離婚、渡仏。
さてそこからなんだけれど、藤田についてテレビや本などで聞きかじったところでは、例によってモンパルナスに住み、多くの新進の画家、音楽家等と交流を持ち、そこで多くの勉強をしたらしい。ピカソとの交流もその時からだということだ。
記憶に残っている藤田嗣治といえば、丸眼鏡におかっぱ頭。
初めは絵が売れるまでには至らず、貧窮の生活をしていたらしいのだけれど、貧しいなりに、先述の芸術家連中と芸術論を戦わせたり、飲み歩いたりする生活だったようだ。
まあ、言ってみれば、仲間うち全員が個性的な猛者揃い。「鬼面人を驚かす」は大袈裟だろうが、みんな、少しでも目立ち、他の者をびっくりさせたり感心させたりすることを楽しみとしている。
そんな連中の間で、藤田の腕は目立っていたらしい。絵の腕前も、だろうけれど、驚かす方では特に。
或る日、散髪をして来た。金がないから自分でやってきた。
周囲の人が驚いた。おかっぱ頭だった。丸眼鏡におかっぱ頭。何とも珍妙だったろう。
まず、三十前後の大の男がするようなヘアースタイルではない。
しかし、東洋人独特の黒髪。まっすぐな髪の毛を眉のあたりですっぱりと切り揃えた、そのすぐ下に丸い眼鏡。西洋人には決してマネのできない格好であったろう。十二分に驚かす、という目的は達成できた筈だ。
全く関係がないけれど、後に日本人のファッションモデルの化粧やヘアースタイルはというと、黒髪の美しさを際立たせるために直線に切り揃えた髪と、切れ長の目を強調するために目尻をより長く見せるように影をつけるのが基本のようになっていった。
藤田に倣ったわけではないのだろうけれど、西洋人から見たアジア人、特に日本人の美しさの理想の形、というのはそういうものだったらしい。
藤田はさしもの芸術家連中を感心させたわけだ。おそらくは彼らの誰一人として気づかなかった新鮮な感動のあることを知らしめた。
牽強付会に過ぎるかもしれないが、日本からの瀬戸物などの輸入品は浮世絵版画に包まれていたのだが、それにより西洋人はこれまで見たことのない新鮮な美を見せつけられた。
それに近いものを、彼ら芸術家仲間は藤田のおかっぱ頭と丸眼鏡に感じ取ったんじゃないかな、と思う。
晩年、日本を離れ、フランスに移住するが家の設計なども自分でしたらしい。それが、言ってみればドールハウスのような精巧な模型を自分でつくって示す、というやり方だったらしい。
テレビでそれを見た時は「よくやるよなあ、全く」としか思わなかった。
そんな細かい作業をしているよりも、絵を描きたかったろうに、と。
で、そうは思いながら、何だかどこかで見たような、いや、見たんじゃなくて感じた、似たような感覚があった筈だが、と思っていた。
今頃になってやっと気が付いた。「枕草子」だ。
「枕草子」といえば、「いとおかし」ばかりが頭に浮かぶけれど、これ、「いとおかし」、は「定番」ということじゃなくてこれまで見過ごしてきたものを見直した、新しい角度から見ることで、新鮮な驚きを「興味深いもの」として示したものでもある。
可愛らしいもの、鬱陶しいものなどについても「そうだよね。あるある!」で終わるんじゃなくて、少しずらした「そういえば」という枕詞のついたような新しい何かを、当時としては見せた筈だ。
それが新しい時代の「定番」の感覚となり、そしてその感覚は、文化となっていく。
学校で必ず習う「闇もなほ蛍の多く飛び違ひたる」なんてのは、それまで怪しいものと考えられていたのだ、と教えられた記憶がある。
藤田にとって模型作りは、彼の絵やおかっぱ頭と同じく表現手段だった、と考える方が納得できる。
つまり若い時から晩年まで、彼の姿勢は全く変わっていないんじゃないか。
人はそうそう変わるものではない。特に幼少期に倣い覚えたものは間違いなくその人の本質と直結している。
となれば民族性とか県民性なんていうものも、そう簡単に変わるものではないと言える。
妙な愛国教育を受けた者はそれを捨て去ることはなかなか大変で、そう考えたら石平氏が日本に帰化したことなどは、福沢諭吉の「脱亜論」ならぬ、「脱中共論」(脱シナではない)の現実行動でしかないのかもしれない。
当然、我々の受けてきた自虐史観(言葉に抵抗があれば青山繁晴氏の言う「思い込み」でもいい)を捨て去ることもなかなか大変なこと、となる。
また脱線したまま終わるわけにはいかないので、中締めに。
藤田は人を驚かすことを好んだ。それは注目されるためだった
と言っても「ああ~びっくりした」と言わせるためではない。何らかの感動を期待してのことだ。
初めは好奇心のままに絵を描き、それに衆目が集まるようになると、次は感心されるように、そして今度は感嘆されるように、と努力を惜しまないようになる。
しかし、その先に金とか名声を求めて、というわけではない。
とにかく
「人の心を揺り動かし、衝き動かすことができれば。そうするためになら何でもやってみよう」
そう思って一生を過ごした人と思われる。
そこで、「戦争画と芸術至上主義。その顛末」、となる。
(続く)
