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「見えないものを見る(感じる)」 (分かる③)
2017.03/05 (Sun)
枕が長過ぎた。「門外漢」も「初心者」も、「本当のところ」には全く触れることのできない者で、それは修業者(取り組んでいる者)も主観的には同じで、それでも、取り組んでいる者(修業者)はどうにかして「本当のところ」に、まずはとにかく触れたいと思い、苦しんでいる。
けど、門外漢や初心者には、その苦しみすら分からない。
と言っても、取り組んでいる者だって、魔に魅入られてその苦しみから目を背けようとすることは往々にしてある。慢心もその一つで、増長(増上)するのも、己を卑下するのも、同じ慢心。(増上慢。卑下慢)
その典型的な証拠となる言葉が門外漢や初心者に対する「~のくせに、えらそうに」、という絶望的な一言だった。
一体どうしたら良いのだろう。
そう考えた時にすぐ頭に浮かぶのが西行法師の「何ごとのおはしますかは知らねども 忝さに涙こぼるる」、という歌だ。
神もまた、見えない。しかし「感じる」ことはできる。
同じように「本当のところ」も、見えずとも、「感じる」ことはできるのではないか。
「感じる」、は「本当のところに触れる」、ということだ。
「感じる」ことができたら、その感触を手掛かりに「本当のところ」、「高い境地」に近付ける筈だ。
これまでに
「『見えないもの』や『高い境地』は、見えないのだから形から入るしかない。それが武術や華道、茶道等の所作(形式)を習う(倣う)理由だ。外側を作ることで中身の形を分かるしかない」
、というようなことを何度か書いてきた。
神道の拝礼のための一連の所作も、まさしくそれで、「外見ではない。要は中身だ」、と拝殿の前で賽銭を投げ入れ、拍手もせず、合掌して願い事をする、などというのからは敬神の念は湧いてこない。
昔、小泉総理が紋付羽織に袴姿で靖国神社に詣で、拝殿で一礼だけして帰った、というのなどは、まさしくそれだろう。chinaへの当てつけに参拝をした、靖国神社を政治利用した、としか思えない。
穢れを祓い、清く直き心で、神前でただ拝礼をする。それで初めて「敬神の心」を感じるのだから。
繰り返しになるけれど、武術や華道、茶道などの「高い境地」は心の中のことだから目には見えない。
それでも修業者はそこに至りたいわけだから、習おうとする。
「見えない」のだから習えない。で、外見を真似するように、と教えられる。「習う」ために「倣え」と言われるわけだ。
ほんの数ミリのずれ、一瞬の緩急の間違いを口喧しく注意される。
「このぐらい、許容範囲だろ?」なんて思っていると見事なくらいに腹積もりを見透かされて叱責される。
煙たいなあと思いながら、でも、言われる通りになぞっていくと、
「あ、そういうことか。これ(この動作)は、そういう心積もりなのか」
、と実感する時が来る。「型(形)から心の形を「感じ」取った瞬間、と言えるだろう。
マニュアルでも裏技でも何でもない。こうするしか「見えないもの」を見る(手に入れる)ことはできないのだ。
逆に、こうやって一つが感じられれば、他のものが一気に(霧が晴れるように)見えてくることがある。
やっとここまで来た。
結局は「見えないものを見る(心を知る)」には形から入るしかない、ということだ。
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